雑記

3月11日。今考えてること。最近起こったこと。

オアフ島の朝の海辺

今考えてること。

3月11日。今年でもう12年。

当時は28か。あの頃を少し振り返ってみる。

中卒の私はがむしゃらに頑張ればきっと報われると信じて日中の工場派遣社員と新聞配達の掛け持ちをしていた。

半年ほどで体力の限界を迎え、車で朝の出勤中に居眠り運転をしながらカーブに差し掛かった。頭ではハンドルを切ると分かっていたが疲れて体が動かなかった。対抗からダンプが近づいてくるとスローモーションの映像になり、その直前で両肩を誰かに鷲掴みにされハンドルが切られた。

その時まで心霊的なことは信じていなかった。

 

その後、社会経験を何も積み上げていない私は「手っ取り早く稼げるから」と妻に言われ運送会社に転職。この世で一番やりたくない仕事だったが我慢すればいつかは報われると信じて言われるがまま転職した。

トラックに一日18時間。もともとトラックが死ぬほど嫌いだったので秒で狂ったのを今でも覚えている。家族のためなんて牙城はすぐに崩れた。

人生に光なんて見えるわけもない。狂った精神で真っ暗闇を全力で走り続ける。どうせならあのとき死んどきゃよかった。

ストレスのパラメータはぶっ飛んでしょっちゅう泣き叫びながらハンドルを握っていた。ハンドルをヘッドバットした。ストレスで30㎏太った。深夜の空き地でトラックの荷台に乗りながらエロ本見て叫んでた。マジで狂った。しかしギャンブルや女性に逃げることはなかった。ひたすら自分の精神を壊した。

努力なんて報われない。人生に光なんてない。真っ暗なドロ沼を這うような人生。

その後、誕生日に居眠り運転で追突事故を起こす。「誕生日に連絡が取れないのは事故ではなく誰かと一緒にいたからなのか」と痛めた体を引きずりながら自宅へ帰った矢先に詰(なじ)られたのを今でもよく覚えている。常に疑われる人生。クソみたいなド底辺。まじでクソみたいな人生。

このあたりからだったか。精神的に寄り添えなくなっていったのは。一番つらい時に寄り添える人がいない。パートナーの批判をしているのではない、周りから学ぶことをせず傷つけられた痛みを知ろうとせず教養を積み上げることを怠った。そして決断を他人に委ね責任を負うことから逃げた結果。身から出た錆だ。無知と傲慢と浅はかな言動で周りを傷つけ信用を失っていた。それを認めずひねくれていた。パートナーとは自身を映す鏡だ。

 

そんなときに地震が起きた。

いろんな事を顧みて大切なのは何かと考えるようになった。

 

その後、別の運送会社に転職。

相変わらずド底辺の神経で毎日早く死なないか考えていた。

人生に光なんてないはずだが。人との出会いで運命は変わると実感する。

 

自分のメンタルを0から立て直すことができるようになる。

 

 

その後現在の会社に転職。この会社への転職は自分だけで考え自分で決断した。こちらも運送会社だが今は充実した感謝の生活をしている。好待遇でプレイべートの時間も多いので制作を始めるきっかけもできた。今までの苦労はこのためだったと思えば腑に落ちる。

ゆっくりとだが時間は経験を積み上げてくれる。人生の終わりに向けてゆっくりとエスコートしてくれる。

しかし、あの時ドライバーをやらない決断をしなかったことを死ぬほど後悔している。

自分で考え自分で決断しなかったことを。

 

人生の大事な決断を他人に委ね責任を逃れるのは死と同義だ。もう二度としない。しかしそれに気づいたころには頭の禿げあがったオッサンになっていた。若い時分にそれを積み上げていればもう少し納得のいく人生だったのかもしれない。

 

人生は短く儚(はかな)い。没頭できることを見つけそこに時間を費やすのがもっとも幸福度が上がると今は考えている。

そして人生がどん底になったとしても生き残る決断をすればきっといいことがあると。

 

娘にはそうやって生きてもらいたい。

 

最近起こったこと。

娘との会話で「基督(キリスト)教大学って宗教でしょ?そこの大学に入ったら宗教入らないといけないの?」と質問された。

その答えに「レーサーになるためにまず車の免許をとるのと似てるかな」的な返答をしようと思ったがなんだか的を得ていない気がしてやめた。

 

日本では宗教の偏った考え方が強いなと感じる。というか宗教に対しての知識を学ぶ機会が少なすぎるというか避けられているようにも感じる。「宗教」の一言で危険人物のように扱われている。それは最近の新興宗教がやらかす事件をよく耳にするせいなのか。たしかにそのような報道ばかりでは宗教に対しての嫌悪感ばかり募っていく。

私の家系は盆と正月があるし死んだら火葬されその他諸々の仏教的な習慣が定着してるので仏教徒ではあるがそもそも「教徒」って言葉に馴染みがない。

教徒って言葉を使うのは過激派的な集団か怪しい勧誘をしている集団を最初に思い浮かんでしまう。

私は初めて好きになった作家がクリスチャンだったのでキリスト教の洗礼は受けていないが強く影響は受けているし仏教にも深く興味があるので宗教思想全体に興味がある。

しかし国内にいるうちは宗教に対する概念が覆ることはなさそうなのでとやかく言うのはやめよう。

 

先日、娘が泣きながら帰ってきた。私はてっきり強姦にでもあったのかと思ったらどうやら部活の顧問に暴言を吐かれたらしく帰り道は我慢していたようだが家で感情を爆発させていた。

30分くらい声が何度も裏返るまで泣き叫んでいた。内容を静観していると過保護な親なら学校へ直訴しているくらいの内容だった。私としては体罰はなかったようだし娘を少々甘やかしすぎていた部分もあったのでちょうど良い社会経験かなと冷静で冷たい親のようであるがこれが率直な心情だ。

しかし…感情の爆発ってのをみるとやはり感動のようなものを覚えてしまう。表裏左右のない直球の感情表現。完全無垢な爆発だった。

動画撮っておけばよかったな。

感情を爆発できるってのはいいことだなと感じた。赤ちゃんが泣いている姿も時折羨ましく感じてしまう事がある。

 

  • この記事を書いた人

ケラ

とくに何もない人。何かが人より秀でているとか自慢できるスキルがあるとか羨ましがるキャリアがあるとかが何もない人。時折キャンプに行ってます。料理を作るのが好きですが食べるのはあまり興味ない。

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